単純化思考からの脱却

ヒトはシンプルな考えを受け入れやすい。

これを単純化本能という。

 

例えば

ある栄養素を取ると体に悪い。だからこの栄養素が入った食べ物を食べると体に悪い。

 

とシンプルに考えてしまう。

しかし、これは論理的ではない。

 

魚を例にする。

魚にはPCB(有害物質)が含まれている。

70年間に週2回食べると、凡そ24人の命がガンによって奪われる。

では魚は食べるべきではないのだろうか?

 

答えはノーだ。

 

魚を食べることで10万人中7000人が心臓病で命を奪われずに済んでいる。

 

24人は亡くなるが、7000人の命が救われる食べ物。

天秤にかけた時、まだ魚は食べるべきではないと言えるだろうか?

 

シンプルの一番の問題は完全からはほぼ遠いという事かもしれない。

カテゴリー分けを疑う。

分断本能というらしい。

何かを分類したがることを。

 

私とあなた

東京と大阪

日本とアメリ

 

大抵の場合カテゴリー分けに意味はない。

むしろ歪んだ思考を生み出しやすい。

日本人は〜というのをよく見る。

日本人と外国人で何がそんなに違うというのか?

こういうのをステレオタイプといったりもする。

分けてると分かりやすいのだろう。

曖昧にしておくとむず痒いのだろう。

だけれど、それを理由に思考を歪ませるのは避けたい。

 

ワールドカップが始まったら日本を応援するようなことは避けたい。

日本と海外に大した差はない。

同じ日本人だからとカテゴリー分けする理由はない。

同じ人類なのだから、区別して応援する必要はない。

 

最近人間とキノコはほぼ同じという内容の本を読んだ。

細胞をみてもそんなに違いはないそうだ。

 

もしキノコと人間がワールドカップを開催したら人間ばかり応援しない人間になりたい。

常識を疑う

アインシュタイン曰く、

「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」

たしかに。心当たりは多い。

 

Wikipediaの常識を見るとより理解できる。

 

Wikipediaによれば

「社会を構成する者が有していて当たり前のものとなっている、社会的な価値観、知識、判断力のこと」とされている。

Wikipediaに従えば常識は社会があって初めて生まれるものとなる。

 

常識は社会に依存している。

 

ということは、年代によっても常識は違うし地域によって違う。

時には性別によっても違うし、家族でも違う。

 

つまり社会が違えば常識が変わるということだろう。

しばしばある社会に違う社会の常識を持ち込む様子が見られる。

「最近の若者は」というのは典型例だろう。

これは社会の枠組みを把握してないからなのかも知れない。

どこまでがこの社会の領域でどこからがこの社会の領域か把握できていないのだろう。

 

社会を把握しなければこの様にどこへ行っても常識に囚われてしまう。

思考が固まってしまう。

 

思考を柔軟にするには社会から脱却すべきだろう。それは同時に常識からの脱却を意味する。

 

社会の常識というのはそもそも、その社会にとって都合の良いことの集合体でしかない。

皆んなの意見や方向性が大きく分断されないように作られている。

普段は秩序をもたらし安定を生むが、反対に考えれば変化を抑制してしまう。

 

常識というのはその社会の安定剤なのだ。

そして、常識というのは社会に都合の良いことなのだから社会外からみれば社会への偏見なのだ。

なぜブログを書くのか?

ブログは自分を客観視できるツールと言える。

マザーテレサが思考に気を付けなさいと言ったが、自分の思考に気をつけることは本来難しい。

それは自己否定だからかも知れない。

 

自分の知識や考えというのは視点を変えれば自分が信じている事でしかない。

決して正しいことや真実というものが、自分の知識や考えではない。

つまり、自分の知識や考えを疑うということは自分の信じているものを疑うということになる。

信じているものは中々疑えない。

キリシタンが神を疑うようなものだ。

 

だがブログは違う。

ブログは自分の頭から一つ離れた存在だ。

自分ではない。

ブログに書けば自分とは乖離する。

時間が経てばより乖離する。

そうすることで自分を客観視できる。

自分を簡単に批判できる。

だから私はブログを書くのだろう。

 

自分の思考に気をつけるのが難しい理由はもう一つある。

それはありふれているということ。

我々は当たり前のように呼吸しているが、普段から当たり前の様に存在するからこそ呼吸を疑うことはできない。

 

同じ様に普段、思考が当たり前の様にある。

いちいち全て疑っていたら、それだけで日が暮れてしまう。

ありふれたものを思考し直していたら時間が足りない。

それでも思考に気を付けたい。

中途半端何度も考えるよりまとめた方が効率が良い。

だから私はブログを書くのだろう。

 

思考し直していたらと言ったが、この言葉は大抵正しくない。

まるで一度は思考したかの様な言い方だ。

ここでの目的は思考のし直しではなく、初めて思考することだ。

 

だから私はブログを書く。