常識を疑う

アインシュタイン曰く、

「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」

たしかに。心当たりは多い。

 

Wikipediaの常識を見るとより理解できる。

 

Wikipediaによれば

「社会を構成する者が有していて当たり前のものとなっている、社会的な価値観、知識、判断力のこと」とされている。

Wikipediaに従えば常識は社会があって初めて生まれるものとなる。

 

常識は社会に依存している。

 

ということは、年代によっても常識は違うし地域によって違う。

時には性別によっても違うし、家族でも違う。

 

つまり社会が違えば常識が変わるということだろう。

しばしばある社会に違う社会の常識を持ち込む様子が見られる。

「最近の若者は」というのは典型例だろう。

これは社会の枠組みを把握してないからなのかも知れない。

どこまでがこの社会の領域でどこからがこの社会の領域か把握できていないのだろう。

 

社会を把握しなければこの様にどこへ行っても常識に囚われてしまう。

思考が固まってしまう。

 

思考を柔軟にするには社会から脱却すべきだろう。それは同時に常識からの脱却を意味する。

 

社会の常識というのはそもそも、その社会にとって都合の良いことの集合体でしかない。

皆んなの意見や方向性が大きく分断されないように作られている。

普段は秩序をもたらし安定を生むが、反対に考えれば変化を抑制してしまう。

 

常識というのはその社会の安定剤なのだ。

そして、常識というのは社会に都合の良いことなのだから社会外からみれば社会への偏見なのだ。